皿割りまくり日誌

何かにつけて皿を割りがちな20代

ユミルの庭とわたし

お前ネット環境あるの昼だけじゃないん?て思ってる?

ブログのために無理やり残ってるよ。

ネット繋げんって愚痴も言えんストレスで胃炎ってまじ笑えん 韻踏める

 

中学、高校と地元福井のクソ田舎で軽音に入りながらコピーバンドをしたり、

ピアノと一緒にオリジナルユニットをやったり、

田舎ながらも一生懸命に音楽をしていました。

 

大阪に出てきて、「ハツカネズミは笑わない」というバンドを始めました。

ありがたいことに見放題に出してもらって、沢山の人に出会って、

自己顕示欲と自己表現と自己愛と自己嫌悪にもまれながら、

そして他者あっての自己、という価値観を形成しながら、

私は憧れの「バンドマン」になったのでした。

 

でも色々あって2014年にハツカネズミは笑わないが解散すると、

そこからはもう何もなくなってしまった。

「前バンドやってたんですよね」とか、

なんか恥ずかしくて言いたくなかった。

誰かがそう言うのは全く気にならないけど、

私は「今」この瞬間にバンドをできていない自分がバンドマンを名乗るというのが恥ずかしくて仕方なかった。

色んなバンドのライブを見に行ったけど、

良いライブを見れば見るほど悔しくて泣けた。

二度ともうあのステージには立てないかもしれないと思った。

 

そんな中で今のメンバーと出会い、そして脱退などなどを繰り返しながら、

少ない本数ながらライブをしてきました。

 

ライブの本数少なすぎて「いやまじ誰だよ…」ってなるよねわかる…

わかりすぎて…なんか…ごめんな…

でも私にとっては、私をまたステージに立たせてくれた特別なバンドです。

 

「音楽」と「バンド」ってジャンル的には同じだけど、

厳密に言うと全然違うと思っていて、

本当に人によって定義が違うから、あくまで私の中での話だけど、

「音楽」はいつでもどこでも一人だって楽しめるけど、

「バンド」は誰かとどこかで誰かに向けてやるものだと思ってるんです。

「誰か」と「どこか」で「誰か」に向けて発信することの、

責任と覚悟が必要だと思っていて。

でもその「責任」と「覚悟」のとりかた、方法というのは人によって違う。

本当に方法が違うだけで、皆それぞれ覚悟を持って、自分の音楽の責任を取ろうとしてるんだよなあ、とメンバーと話し合う中で実感した。

誰かが何かを大切にする姿は美しいし、尊いなと心の底から思えた瞬間でした。

そして、私もそうでありたい。

大切なものを大切にしたいし、

覚悟を持って責任を取りたいなと思いました。

このまま続けていくこともきっとできるけど、

次のライブをラストライブにして、最高のライブを見てもらう、

というのが私たちの自分たちの音楽に対する決着だね、という話になりました。

 

ライブ本数も少ないのに、本当に毎回ライブに来て下さる方もいて、

ライブに誘って下さる方々がいてくれて、

そういう方たちの期待に応えられなかったことが本当に申し訳ないです。

そして本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

 

3/3(土)神戸ART HOUSEは、

doppel dropのドラム、タカハシシュンタさんにサポートをお願いします。

そして実は前回のライブから、ベースは私の前のバンド「ハツカネズミは笑わない」のベースのかなたににサポートをお願いしていました。

 

 

最後だから、というのは狡いなと思うけど、

今までで一番良いライブにするから、見に来てほしいです。

 

あと私たちの都合で勝手にラストライブにしてしまいましたが、

イベント自体本当に素敵なメンツの中に入れて頂いているので、

純粋に楽しんで頂ければと思います!

 

これから私はmisokaで、ギターのぽけさんはオオハシで音楽を続けていきます。

もし少しでも興味を持って頂けるのであれば、ぜひチェックして頂けると嬉しいです。

そしてもちろんシュンタさんはdoppel dropでどえらいドラム叩いてるので、

そちらも見逃せないぜって感じです!

 

多分「何生意気言ってんだこいつ」「きれいごと乙」みたいな気持ちになる人もいるだろうけど、本当にそう思ってるから仕方がないんだ…

 

先日またひとつ歳をとりました。

25歳までの私が終わって、26歳の私が始まっていく。

ユミルの庭というカタチが一旦終わるけど、みんなの音楽がまた始まっていく。

 

話し合いの時に投げかけられた、

「どうして音楽がしたいの?」

という質問の答えを、常に自分に確認しながら生きていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうすぐ大晦日、そしてmisoka

お久しぶりになってしまった。

気付いたらもう年末。

年末って、全部終わりじゃないですか。

なんか嫌なことも嬉しいことも一旦リセットというか。

息を止めるようにして1年をなんとか生き延びて、そして大晦日にふっと息を吸える、というか。

終わるのに、みんな嬉しそう。

それは仕事が休みだからとか、お年玉がもらえるからとか、色々あるかもしれないけど、

また始まるから安心して終われるんじゃないかな。

少なくとも私はそうだ。

 

「misoka」というピアノユニットを始めました。

「晦日(みそか)」とは、月の末日のことで、

大晦日は12ヵ月の一番最後の日だから「大晦日」というんですね。

「晦」という時には「月が隠れる」という意味があります。

どうしていたって始まるんだから、私たちは安心して終われる。

終わって、また始まって、そうして歩いて行く。

 

私は「ユミルの庭」というバンドでも歌っていますが、

私の音楽の始まりは小学生の頃にコードしか押さえられない拙いピアノで作曲を始めたのがきっかけでした。

その時は歌詞を先に書いて、その後コードを付けるという“歌詞先行型”。

中学~高校まで今とは別のピアノユニットをやっていました。

でも、元々音楽を始めたきっかけはバンドに憧れて、だったので、

諦めきれず、大学で「ハツカネズミは笑わない」というギターロックバンドを組みました。

解散後、やはり諦めきれず、「ユミルの庭」を結成したというわけです。

「ハツカネズミは笑わない」も「ユミルの庭」も、楽曲自体はギターが作り、私が後から歌メロと歌詞を乗せています。

バンドだから出せる音圧、熱量があるように、

ユニットだからこそ届けられる言葉、想いがあります。

 

選ばれし者になりたい。

特別な人間になりたい。

だからどうしても音楽を辞められない。

本当は凡人だってずっと前からわかっているのに。

 

それでも私は、選ばれし者になりたい。

 

ユミルの庭に引き続き、misokaも何卒宜しくお願い致します。

 

初ライブは2/4(日)大阪某所にて。

詳細は解禁をお待ち下さい。

 

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差し出された手を握り返すことはできるか

文章書くのってはちゃめちゃに体力使うことを忘れていたものだから、

一ヶ月以上更新のない選ばれしブログにのみ表示される広告が出現してしまった。

 

書けることと言えば、一昨日おばさんになったことくらいだ。

揶揄的なことじゃなくて!戸籍的におばさんになった。

生まれたての甥っ子の動画が送られてきて、

なんかこう、こういうのを「エモい」っていうんだろうな。

生まれてきたばっかりなのにちょっと笑ってるのすごくない?

まだ開けにくいんであろうほっそい目を必死に開けようとしてて、

自分の意志とは関係なく急に産み落とされたのにモチベーションすげえなおいってちょっと感心してしまった。

もうちょっとしたら握り返し?反応?やっけ、なんか手を出したらきゅって握り返せるようになるのかな。

差し出された手を無意識に握り返すことができるってすごい。

赤ん坊を見るといつも思う。

そんな当たり前のこと、いつの間にかできなくなってしまうんだよなあ。

微笑み返すことも、感情をわかりやすく相手に伝えることも、

差し出された手を握り返すことも。

赤ん坊ができること、今やろうとするとめっちゃ難しい。

 

 

 

 

 

 

 

愛は飛び越えられるのか

言葉は便利で、それでいて不便だ。

「愛」と一言で言ってしまえば、なんとなく、本当になんとなく誰しもが頭に思い描くものがあるだろう。

大抵は「愛」と言えば美しくて暖かいものを想像するだろうが、悲しいことに「愛」は時々言い訳にも使われてしまう。

とくに、自己肯定間の低い人間は「愛」の餌食になりやすい。

自分で自分を認められないがゆえに、心に空いた大きな穴を他人に埋めさせようとするからだ。

ぽっかり空いた穴を埋めるために、なんの芯もない綺麗なだけの言葉を安易に受け取り、大切に大切に抱えてしまう。

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そういう奴は、20歳の頃、クリスマスに遠距離中の彼氏に会いに行って、終電後の東京の見知らぬ駅で音信不通のまま1時間半待ちぼうけを喰らったり、クリスマスに玄関先で関節技をキメられたりする。

もうどう考えても前世でクリスマスに何か許されない罪を犯しているし、もし将来女の子を産むことがあれば、クソ野郎の見分け方とダメ女にならない方法だけはしっかり教えた方が良い。

ていうかクリスマスに彼女の間接をキメるって何?

お前の学校だけ道徳の授業一切禁止されてたんかよ。

(東京駅で待ちぼうけ喰らった時は、うずくまって泣いていたところに泥酔したサラリーマンに「もう帰ろう…もう、帰ろう…」と背中をさすられて声を上げて泣いた)

恋愛でないにしろ、「愛」という漠然とした美しい言葉に踊らされることはきっと誰でも一度は経験があるのではないだろうか。

でも、馬鹿なことだけど、生々しくて、いいな、とも思う。

そういうものを繰り返して大人になった人は、芯のない、綺麗なだけの言葉はきっと使わない。

私たちは「愛」を克服することはできないだろう。

でも、どうせ踊らされるのであれば、綺麗にお化粧をして、真っ赤な靴でも履いて踊ってやれば良い。

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それが私にとっての「愛を飛び越える」ということ。

そんな想いで作ったのが「潮騒」という曲です。

 

愛は飛び越えていける。

それがどれだけ無様で、滑稽だとしても。

 

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7/15(土)心斎橋FANJ

コハクノアカリTOUR2017 『ファンファーレが響く頃』 st17:30 adv 2,000(別途1D)

ユミルの庭/コハクノアカリ(東京)/七燈(fromイトカムトビコ)/Fractequal/アサモドキ/Suuuuuuuu

 

 

海底よりずっと険しい場所へ 6/2(Fri)for example you sell the sea@SOCORE FACTORY

6/2(Fri) for example you sell the sea @SOCORE FACTORY


for example you sell the seaと言えば、暗く、激情的で、自分自身がこれまで目を逸らしていた内省をえぐるような楽曲で独自の世界観を確立しているロックバンドである。

for example you sell the seaの音楽の中に「救い」はない。と私は思う。

youtu.be

 

youtu.be

『浜辺』と『負債』を聴いていると、寒々とした冬の海が見える。

荒れ狂う海を前にした自分は、何もせずに佇んでいたり、

腰まで冷たい海に浸かって、言葉にならない声を上げていたり。

 

そしていつも、「救いがないことが唯一の救いなのだ」という文豪・坂口安吾の言葉を思い出す。

 

いつか救われる、楽になる、そう信じて出口のないトンネルをさ迷うことがどれだけ絶望的なことか。

はじめから「救いなんてないのだ」とわかっていれば、出口を探さずに済む。

あるかどうかもわからない「救い」にすがらずに生きていける。

 

for example you sell the seaの音楽は、聴く者を強くする。

果てまで落ちた底で、「これが全てだ」と言わしめる強さを与えてくれるのだ。

 

そんな中、6/2、SOCORE FACTORYで、私は目撃してしまったのである。

 

この日は新曲ばかりのセットリストで、MVとなっている『浜辺』も『負債』も演奏されなかった。

aikoみたいな曲やるから楽しみにしてて」

そんなリョーイノウエ(Ba)さんの言葉が頭をよぎったのは2曲目に差し掛かった時だった。

少し黄みを帯びた照明がぱ、ぱ、と移り変わり、ステージを照らす中、

飛び込んでくるリズミカルで「キャッチー」なフレーズ。

どきどきした。

もちろんテトラポットを登るような爽やかな海の風景とはほど遠い。

それでも、彼らはもう海の底にはいなかった。

腰まで浸かっていた海から出て、じっと海を睨み付けている。

 

彼らが海底よりずっと険しい場所へ進もうとしていることをまざまざと見せつけられたのは、その日最後の曲となった『カーテン』だ。

『浜辺』や『負債』を思い出させるような仄暗い音楽。

それでいて、この日序盤から感じていた「軽やかさ」は確実に聴く者を海の底から引きずり出そうとしていた。

赤い照明の中、メンバーの誰も前を見ない。

ボーカルの熱く、それでいて繊細すぎる歌声だけが真っ直ぐ観客を見ていた。

海底から這い出たとして、依然として目の前の海は荒れ狂っているのだとわかる。

 荒れ狂う寒々とした海に、溺れるでもなく、佇むでもなく。

 

この夜、for example you sell the seaは海の底から浮上した。

ついに「救い」を見つけてしまった彼らは、寒々とした海の底よりずっとずっと険しく、荒れ狂った場所へ歩を進め始めたのだ。

新しい場所へ辿り着いた時、もう一度『浜辺』や『負債』のような「救いのない」曲を披露したとしたら、どうなるのだろう。

これまでより更に激しく、内省をえぐられる瞬間を心待ちにしてしまう自分がいる。

 

for example you sell thesea

for example you sell thesea

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露出狂はじめました。

 

 

2018年がすぐそこまで来ている。

これは決して大袈裟なんかじゃない。

もし笑う鬼がいたとしたら、そいつは夏休みの宿題を8月30日の朝まで残しておくタイプに間違いないし、そのくせ「宿題をやっていかない」という選択肢を選べない小心者に違いない。

昔、「夏休みの友」の各所にうすくノリを塗って張り合わせて物理的にページを減らしたことがあるけど、

脳みその9割が筋肉でできている担任の先生に容赦なくもみあげを引っ張り回されたので、宿題は絶対にやった方がいい。

先生元気かな。

今も独断で1限~4限までを勝手に体育の授業に変えるのかな。

100メートルを23秒で走る私を見て言った、

「そんなに遅くしか走れない脚切り取って他の誰かにあげてしまえ」

というパワーワード

他の誰かって誰だよ!!!!!

 

昔、読書感想文を「文章が子供らしくない」という理由で、居残りまでして書き直させられたけど、

今考えても「おいおい脳みそを占める筋肉の割合減らしてから出直してきな子猫ちゃん」て感じだし、

「子供らしい文章」って何だったんだろう、何が正解だったんだろうって思う。

その時私が思ったことを私が書いたんだから、それは「私の文章」なんちゃうんか?お?????

 

まあここで怒っていようと、容赦なく2017年は終わるし、2018年はやってくる。

そして脳みそ9割筋肉マンはこうしている間にもどんどん遺伝子を残し続けている。

 

人生も、「夏休みの友」みたいにところどころをノリで貼り付けて、短縮することはできるかもしれない。

それでも、いつまでも終わらないようにとページを増やすことは絶対にできない。

 

言葉で傷ついたから、言葉を大切にしたい。

だからこそ歌詞を書いて、それを歌にしたいと思ったし、

今もバンドで歌っているんだと思うから。

 

この上半期が終わるタイミングで、もう一度「書く」ということに立ち返ってみようと、そういう気持ちでブログを立ち上げました。 

 

誰も「見せて」なんて言ってないのに、「書くわ。ブログ作るわ。ブログみてや!!」って、これはもうほぼ露出狂と一緒。

見て!!!!!私の恥ずかしいところ見て!!!!

 

6月から露出狂始めました。