皿割りまくり日誌

何かにつけて皿を割りがちな20代

愛は飛び越えられるのか

言葉は便利で、それでいて不便だ。

「愛」と一言で言ってしまえば、なんとなく、本当になんとなく誰しもが頭に思い描くものがあるだろう。

大抵は「愛」と言えば美しくて暖かいものを想像するだろうが、悲しいことに「愛」は時々言い訳にも使われてしまう。

とくに、自己肯定間の低い人間は「愛」の餌食になりやすい。

自分で自分を認められないがゆえに、心に空いた大きな穴を他人に埋めさせようとするからだ。

ぽっかり空いた穴を埋めるために、なんの芯もない綺麗なだけの言葉を安易に受け取り、大切に大切に抱えてしまう。

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そういう奴は、20歳の頃、クリスマスに遠距離中の彼氏に会いに行って、終電後の東京の見知らぬ駅で音信不通のまま1時間半待ちぼうけを喰らったり、クリスマスに玄関先で関節技をキメられたりする。

もうどう考えても前世でクリスマスに何か許されない罪を犯しているし、もし将来女の子を産むことがあれば、クソ野郎の見分け方とダメ女にならない方法だけはしっかり教えた方が良い。

ていうかクリスマスに彼女の間接をキメるって何?

お前の学校だけ道徳の授業一切禁止されてたんかよ。

(東京駅で待ちぼうけ喰らった時は、うずくまって泣いていたところに泥酔したサラリーマンに「もう帰ろう…もう、帰ろう…」と背中をさすられて声を上げて泣いた)

恋愛でないにしろ、「愛」という漠然とした美しい言葉に踊らされることはきっと誰でも一度は経験があるのではないだろうか。

でも、馬鹿なことだけど、生々しくて、いいな、とも思う。

そういうものを繰り返して大人になった人は、芯のない、綺麗なだけの言葉はきっと使わない。

私たちは「愛」を克服することはできないだろう。

でも、どうせ踊らされるのであれば、綺麗にお化粧をして、真っ赤な靴でも履いて踊ってやれば良い。

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それが私にとっての「愛を飛び越える」ということ。

そんな想いで作ったのが「潮騒」という曲です。

 

愛は飛び越えていける。

それがどれだけ無様で、滑稽だとしても。

 

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